秋の巻 第023帖

秋の巻 第二十三帖

神が主であり人民が従であると申してあろう。これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。結果あって原因あるのでないぞ。今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢゃ。マコトのことはトリの年。

碧玉の巻の十帖に書かれている神武天皇の登場によって4度目の大きな岩戸閉めになったタイミングが主従逆転の始まりと思われます。その後の仏教の伝来前までは神の光が差し込めていたようです。日本へ入ってきた仏教とは釈迦の名を借りた取次の宗派へと変貌していたのでしょう。紀元前の時代のことを後世の通称日本としてが世界に先駆けて主従逆転の型国を体現してしまったともいえるかもしれません。大の日本・小の日本・個の日本として考えてみたいと思います。

現在少なくとも明かなのは、日本国歴史学の権威者のいう日本国号は他力で生まれたという考えのようですので、中心歓喜の個から始まる日本はあり得ないという結論です。フデから導かれる日本国号は個の中心歓喜から始まっているからこそ、中心歓喜大である今の日本が存在するはずです。国号を盗用するほどの魅力があったとしても過言ではありません。