一八(イハ)の巻 第002帖

一八(イハ)の巻 第02帖
三千年の昔に返すと申してあらうがな。よい御用いたす身霊(みたま)ほど苦労さしてあるのぢゃ。他から見ては、わからんなれど、苦労に苦労さして、生き変り、死に変り、鍛へに鍛へてあるのぢゃぞ。肉体の苦労も霊の苦労も、どちらの苦労にも、まけん人民臣民でないと、眼先のことで、グレングレンと引繰りかへりて、あわてふためく様なことでは、どんな事あっても、びくともせん、ミタマでないと、御用六ヶ敷いぞ。こんどの苦の花は真理(ふじ)に咲くのみざぞ。不二に九(こ)の花咲くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。まことの かかりぞ。この先もう建替出来んギリギリの今度の大建替ぢゃ。愈々の建替ざから、もとの神代よりも、も一つキの光輝く世とするのぢゃから、中々に大層ざぞ。人民 苦しからうが、先楽しみに御用見事つとめ上げて下されよ。二つづつある神様を一つにするのであるから、嘘偽(うそいつわり)ちっともならんのぢゃ。少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ。途中から出来た道では今度と云ふ今度は間に合はんのざぞ。根本からの道でないと、今度は根本からの建直しで末代続くのぢゃから間に合はん道理わかるであらうがな。われの国同士の戦 始まるのぢゃ。この戦、神は眼あけて見ておれんなれど、これも道筋ぢゃから、人民にも見て居られんのぢゃが、友喰ひと申して知らしてあらうが。この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ、人民、臣民 勇んでやりて下され。神々様 守護神どの、勇め勇め。二月十六日、ひつ九

三千年の昔に返すとはいつの時代でしょう。フデには三千年をひときりにして扱う帖がたくさん見受けられます。フデをよく読むと日本史を書記させて尚且つ後代の史学会へまで影響を及ぼす全智全能の神の存在がわかります。天孫降臨のニニギノミコトの直系として神武天皇が初めて人皇の世を治めた時代が紀元前660年とされました。今から2,683年前です。3,000年前というとおそらく神武の五代前とされるニニギノミコトの天孫降臨の時期がちょうどタイミング的にあてはまると思います。天孫降臨をするかしないかが最大のテーマとなってくることでしょう。

二つづつある神様を一つにするには善悪御用の神をひとつにしますので、理屈で成り立ってきた御用の悪の神を理(みち)の神への統合化をはかることではないかと思います。