碧玉の巻 第010帖

碧玉の巻 第10帖
 岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。

古事記を起点にして日本国に関する五度の岩戸閉めが書かれております。古事記には日本名が一切出ておらず日本国号の由来を調べる資料としては用が足りてればよいのですが。古事記では日本国号ではなかった西暦712年の成立日をあえてひふみ神示が取り入れたのはなぜでしょうか。     日本国号を取り入れたのは日本書紀からです。西暦720年に成立した日本正史から取り入れるべきではなかったのでしょうか。古事記ではありえなかった日本国号を日本書紀において紀元前から有する諡号として書き換えられた神武天皇の存在は古事記での神倭(ヤマト)の佐怒のことではなかったのでしょうか。

碧玉の巻 第10帖 は日本史の説明として古事記をベースとして時間系列がさもあったかのように大神が話を合わせてうまく書いておられます。西暦712年成立の古事記ですが、おそらくは神示のように自動書記に近い形で書かれていると思われます。大神のコントロール下で間違いないと思います。反対にこの碧玉の巻第10帖を主題にするために古事記が編纂されたと言ってもさしつかえないかもしれません。それぐらい重要なことが書かれております。大神は日本史として五度目の大きい岩戸しめは仏教が渡来した時期から始まり仏魔が共に渡ってきたとされています。日本への仏教渡来は西暦400年代以降のようです。古事記編纂の712年までは300年ほどあるのですから、その間に仏魔が暗躍していたのでしょう。大化の改新とかぶっている蘇我氏の滅亡の時期の人皇のふるまいを正確に神示されております。五度目の大き岩戸しめの立役者としてーーー

以下は個人的な見解です。現在日本の正史が日本書紀であることから、古事記成立時の倭国正史が日本という固有名詞を使用するタイミングを失ってボツになったかもしれない件。現在の某国史自体が神示でいう死の芸術レベルなので、今日は誰の目にもおかしいと思われている感があり、5W1Hも不要なのかもしれません。わかっていても身動きできない状態に置かれているのは収入減による生活難を気にしているからでしょう。何もかも捨てる覚悟をすれば道は開けるようなことも書かれていたと思います。ただし神の衣である肉体は捨ててはいけません。肉体は他人であっても自身であっても神を傷つけることになるからです。

推古天皇までは神代から人皇への移り変わりをうまく説明できたものの、その後の歴史に倭国から日本国への国号を挿入する試みがされたがうまくできずに古事記での国号変遷は断念したと予想します。神武の諡号は古事記では神倭(ヤマト)イワレヒコですが、日本書紀では神日本(ヤマト)イワレヒコとなって、紀元前から日本国号を名乗っていたことへ変更されています。これとは違う語り部録にも残っていますが偶然にも紀元前から日本国号が存在しておりました。それは本州の北端の地です。どちらが本物かは5W1Hですぐわかります。国号に関して科学的な証明は必要です。我が国において学問のススメに最も必要なのは日本国号の検証でしょう。それははじめに古典を検証すること。BM元社長やJN事務所元社長と同じことしているのが某国家の歴史学権威者でしょうね。車の芸術、芸能において死に至らしめていることと同じく国家を芸術扱いしているのでしょうか。

旧唐書では小国日本が倭国を併合したとされています。実際は倭国の支部とみられる筑紫が白村江の戦いで敗れて唐軍に上陸されます。近畿の倭国本部では筑紫の救済をするはずでした。ところが倭国は筑紫限定のものであって、近畿の私たちは小国日本のものであって関係ありませんと唐軍に説明したのが今日の人皇によるものだったと推測されます。唐軍に偽りを伝えたことになります。

この当時の近畿の権力者は自らが倭国であったにもかかわらず海外の脅威に対して筑紫の仲間を捨てて他人のふるまいをしたこと、それを可能にした構想が紀元前に丑寅の地で成立された日本国号を盗用して乗っ取ってしまう計画を立てました。唐軍には小国日本を主張していた人皇でしたが、元祖日本国はカムチャッカや角陽国まで領土を持つ巨大な列島国でした。その情報まで人皇が把握していた可能性もあります。日本国号を名乗ることで領土が広がると。