月光の巻 第002帖

月光の巻 第二帖

きすうときすうをあはしても、ぐうすう、ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。きすうとぐうすうをあはしてはじめて、あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ。こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。あはしまうむでないぞ。

【こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。あはしまうむでないぞ。】今度の岩戸開きでは蛭子を産むか淡島を産むか選択の自由もあると解釈できます。また、古事記成立時の記述も選択の余地は自由であったことを考えると、ともに比較した場合、古事記成立時の記述としては失敗であったという結末になるかと思います。記述する必要があったのかなかったのかを含めて、馬鹿正直なのか素直なのかの区別は必要だということは避けられないかもしれません。

なぜかというと祀り方があまりにもかわいそうです。蛭子は葦の船に乗せて流して棄てたとあります。淡島も自前なのに自前の子として数えられなかった。両者とも自前の子であるならなぜ、自前で手厚く抱擁して埋葬するなり必要な儀式なりを遂行できなかったのかが疑問です。自前なのに生んだ物体に対して愛が微塵も感じられないその処遇こそ信じられません。そこにも御用の悪の存在が見え隠れしているような印象を受けます。自虐した態度を大衆に見せて同情を引き付けようとしたという意見も取り入れる必要があります。今でこそそう言えます。当時は反論者皆無の状態でしたから、尚更なぜそのような言い回しをしたのか、という疑問を持つことさえ処罰の対象になったことでしょう。今となっては誰にでもわかるようになりました。