本サイトのトップページではわかりにくいと思いますので、ヘッダーにリンクしているゆるむぞう氏のひふみ神示データーサイトまたは最近登場した中村氏による全文スマホ対応サイトを参照しながら検証していただくことを皆様にはお願いしたいと思います。
地(九二)つ巻にも書かれていますが、まず上つ巻と下つ巻を読んでハラに入れてほしい旨のことです。神示(ふで)の書きはじめの巻ですから誰しもが読み出す最初だと思います。ところが読み出すとそこに書かれている内容を理解することの難しさに直面します。理由は上つ巻と下つ巻をそのまま読み進めても帖と帖の繋がりが判然せずそれぞれ独立した何かが書かれていると思うことでしょう。たとえ記憶力が良くて上つ巻全42帖下つ巻全38帖を暗記できたとしても、その書かれている内容をハラに入っているかどうか尋ねられたときに、果たしてスムースにハラから取り出せるのかどうか疑問です、と言わしめるほどに内容は難解なことが書かれていると私は思ってきました。それでも帖の内容を理解しようとして模索していたところ、天から地に写るときに反転しているヒントをふでからもらい、その後実践します。全巻全文の句点または文節による反転化です。そこからふでの構造に興味を持つようになりました。それでもなお上つ巻と下つ巻を読んでも難解だと思うことに変わりはありません。今回はふでの構造の解の証明になることを願い開示していきたいと思います。
道味はへよ、歩めよ、大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。(黄金の巻第30帖より引用)
本サイトのトップページでは各巻を九つのグループ分けをしているのでテキストに比べるととても見づらいです。フデは神界にも同じものがあるとされています。ただし、地上に降りる際にはひっくり返って写されていると感じることもできます。そして、実践するとトップページのようになります。その表示がひっくり返った正しい姿、神界にあるフデと同一のものなのかどうかは、やはり、各帖をこまめに見て検証、奏上しながらの実践により徐々に判明してくると思います。少し時間はかかってくるのかもしれません。ただし、はっきりとトップページから読み取れる型の入り口が見つかりました。それをこれから一緒に見ていきましょう。上つ巻からです。
フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、 〇九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ。(至恩の巻 第二帖) 霊界での現れは同じであっても、現実界に現れる時は違ふことあるぞ。それはモノが異なるからぞ。二二はもとのキぞ。ナルトとはその現れのはたらき。(秋の巻第三帖)
働きを現わすナルトが正しければ二二(フジ)のもとのキは正しいと証明されます。二二とは富士、不二、普字を現わし、世界の五千の山を指していると思われます。ナルトが正しければ五千の山もまた正しいことになります。
上つ巻の第一帖と第二帖
上つ巻 第一帖
二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあ か、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。六月の十日、ひつくのかみ。
上つ巻の第一帖について、神界と地上界においてどちらも起点となる帖として設定します(他巻でも基本は同じやり方です)。神界から地上に降ろされた時点で上つ巻が反転していた場合は降ろされた第一帖の立ち位置は一グループの始めを現わすものとしてその位置が定まります。同じ一グループは帖の順番の数字を和算して一桁に直したものの値が一になる帖のグループを現わし、帖の元の順番の数字が大きいほど手前の順位となります。上つ巻の一グループの順位は元の帖の順番で現わすと37、28,19,10,1 となります。ただし、第一帖は起点とする理由があるために1を先頭にします。そのため、一グループに限り1,37,28,19,10という順番の表記になります。以下にくるのは二グループではなく九グループです。理由は反転しているからです。それならば反転しているから九グループが先頭になるのではないかと質問が来そうですが、最初に示したように第一帖の起点を神界と地上界を同じくするために先頭の帖として表記しようとします、そうすると一グループ全体が九グループの前に来ます。その一グループの第一帖を先頭に持ってくるとトップページに書かれた上つ巻の順番ということになります。
上つ巻 第二帖 親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあ るのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあ とには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳 引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。早く(モト)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト 心になりて呉れよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりて呉れよ、悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあ るに、きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。冬の先が春とは限らんぞ。 の国を八つに切って殺す悪の計画、 の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。六月の十日、書は、ひつくの神。てんめ御苦労ぞ。
トップページの上つ巻の順番では最終位置は第二帖です。この表示された意味はなにかあるのでしょうか。単刀直入に言えば、上つ巻の最後のトリの帖は第四十二帖ではなく、第二帖であるということです。ふでの言葉を借りれば、上つ巻の第一帖は始めなき始めの帖であり第二帖は終わりなき終わりの帖です。第二帖は巻全体を総括するような内容になっていると思われます。
上つ巻の帖をグループ分けするとここのつに分けられます。そのグループの現わす順番は1,9,8,7,6,5,4,3,2 ということでした。第二帖とは二グループの最後の帖です。それが上つ巻全体を総括するような内容になっているかもしれないということです。
もしもそうであれば、二二(ふじ)の理解にも関連してくる大事なことだと思います。次は下つ巻を見ていきましょう。
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